1993年5月15日、国立霞ヶ丘競技場にて産声をあげたJリーグ。
一世を風靡して社会現象にもなりました。

今回は、そのJリーグの開幕戦で、各チーム背番号10番を背負って戦った選手達をご紹介していきます。

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ラモス瑠偉|ヴェルディ川崎

ブラジルリオデジャネイロ出身ですが、1977年に20歳で来日し、当時の読売サッカークラブに加入。

1989年には日本国籍を取得し、翌年1990年のアジア競技大会で日本代表に初選出されると、その後もクラブであるヴェルディ川崎の黄金時代を築き、初代Jリーグチャンピオン獲得に貢献。

その後も監督業としても、日本サッカーに貢献している。
愛称は出身地であるリオデジャネイロの子供という意味の「カリオカ」。

木村和司|横浜マリノス

クラブでも代表でも背番号10番を背負い続けてきた、日本のコンダクター。また、日本国内でのプロ選手第一号でもある。

1985年、ワールドカップメキシコ大会最終予選の韓国戦では、一撃必殺の鋭いカーブを描いたフリーキッックを突き刺し、そのシーンは、今なお国内の伝説的名シーンとして紹介されている。
Jリーグ開幕の翌年1994年に、現役を引退。

エドゥー|横浜フリューゲルス

正式名称は、カルロス・エドゥアルド・マランゴン。
ポジションは主に、攻撃的ミッドフィルダーで、当時の横浜フリューゲルスの攻撃は、彼の左足から始まっていたと言っても過言ではない。

また翌年の1994年、ジュビロ磐田戦では、40メートルのフリーキックを叩き込み、観客の度肝を抜いた。

横浜フリューゲルス在籍2年間では、67試合18得点、ブラジル代表としては、10試合1得点の成績を残している。

澤登正朗|清水エスパルス

ミスターエスパルスと呼ばれ清水一筋で現役を全うした偉大なチャンスメーカー。正確無比なボールコントロールと、スルーパスで、チームのチャンスを創出し、初代新人王を獲得している。

1999年のチャンピオンシップで見せた、フリーキックは、
Jリーグファンの間でも、今なお語り継がれている。

▽高木琢也|サンフレッチェ広島

184センチ、85キロという恵まれた体格を生かしたポストプレーヤヘディングで得点を量産したストライカー。

ハンス・オフト監督時代の日本代表でも、ターゲットマンとして度々起用され、1992年のアジアカップ、サウジアラビア戦では、決勝点をマークし、優勝に貢献。
愛称は、「アジアの大砲」。

ピエール・リトバルスキー|ジェフユナイテッド市原

Jリーグ開幕時、ジーコやリネカーと共にやってきた超大物選手の一人。ワールドカップには西ドイツ代表として3回出場し、うち優勝が1回、準優勝を2回経験している。

柔らかなボールタッチで、敵の間をスルスルと抜け出すドリブルは、当時のサッカー少年のお手本ともなった。
Jリーグ通算成績は、63試合出場で10得点。

ジーコ|鹿島アントラーズ

正式名称は、アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。もはや、説明不要の選手の一人。鹿島だけでなく、日本サッカー全体の発展に貢献してくれた功労者。

現役時代は、小柄な体格から、「白いペレ」と呼ばれ、長短正確無比なパスとシュートを武器に、活躍。
のちに、日本代表監督にも就任し、2006年ドイツで開催されたワールドカップまで日本を率いた。

昔、とんねるずの生ダラという番組で、「シュートはゴールにパスをすることだよ」とおっしゃっていたのがすごく印象的でした。

ゲーリー・リネカー|名古屋グランパスエイト

元イングランド代表で、イングランド国内では異なるチームで3度の得点王を獲得した名選手。
代表でも、1986年メキシコで開催されたワールドカップでは、6得点を叩き出し、得点王を獲得し、名実ともに世界のストライカーの仲間入りを果たした。

しかし、Jリーグでは、通算18試合出場で4得点と、年棒3億円ともいわれる活躍はできず、1994年に引退。

非常にコスパが悪いイメージが、定着してしまった選手でもある。

リナルド|ガンバ大阪

情報が少なく、不明な点が多い選手。正直覚えていません。。。。
ブラジル出身で、Jリーグ通算では、たったの4試合で0得点。

モラレス|浦和レッズ

こちらも情報が乏しく、全く記憶にない選手。
どうやらアルゼンチン人選手の模様で、エクアドルリーグで最優秀選手を獲得したという実績を引っさげ鳴り物入りしたものの、すぐに退団。

1993年に3試合しか、出場がなく、0得点。

まとめ

いかがでしたでしょうか?
当時は、選手固定の背番号制度ではなく、試合毎に番号が
異なる選手がいました。
そのため、ユニフォームの番号は何番にするのか、悩んだ方もいらっしゃったのではないでしょうか?

他の背番号も振り返ってみるのも、面白いのかもしれません。

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